職業選択の自由

職業を選択するまでの過程。

転職面接に至る最大の契機は、今思うとCodeIQだった

この記事は当初書く予定は無かった。1本の記事で最初の面談から勉強会に参加するまでの経緯、さらに最初の面接に至るまでを振り返るつもりだったからだ。しかし、前半部分で思いのほかボリュームが出てしまい、書いてから読み返してみると後半の展開が急すぎたため補足しようとしたところである。シルバーウィークのことなんか書いてるからだよな。

さて、転職活動におけるひとつの関門に職務経歴書というものがある。これは今まで会社でした仕事や個人的な活動を記載することで、自分がどのようなスキルを持ち、転職後にどう活躍できるか主張するために使う書類である。もちろん、合わせて履歴書も必要となる。 この職務経歴書は、実は転職活動のかなり早い段階、具体的にいうと最初の面談の時に用意していた。今思うと、この時点で用意しておいたのは得策だった。確かに書くのはなかなか大変だが、一度書いてしまえばあとは使い回せる。半年後に見返してみたが、勉強会のことを追記するぐらいで転職エージェントの人のゴーサインも出たし、質的には問題ないと判断できるだろう。それっぽい文章を書くスキルは学生の経験上自信があるので、もしかしたら思ったより財産なのかもしれない。

勉強会では主にRuby, 特にRuby on Railsを勉強していた。個人的に興味があったのと、もちろん転職先で使いたかったためである。有名な “Ruby on Rails Tutorial” という量質共に最大級のテキストが無料で利用できるため、当面はこのテキストを修了することが目標となった。これが達成できたのが2016年の1月初め、勉強会に参加し出してから3ヶ月ほど経った頃だ。これは勉強会でのひとつの成果である。

もうひとつの成果として、様々な業界・立場の知人が増えたことだろう。「Railsを勉強している」と宣言しておくと、イマドキのRails最前線を知る人から情報がどんどん入ってくる。話を聞けば聞くほど、この業界への興味、及び今のレガシーな環境への後悔が増えていった。具体的に転職を考え出した今の時期がおそらく気持ちの底辺だろう。先月はちょうど会社で取り扱っているシステムのリプレースという時期であり、とにかく残業が多かったことも重なった。「なんでこんな会社入ったんだろう…」と何度思ったことか。

しかし、具体的に面接を受ける踏ん切りはなかなかつかなかった。Tutorialを終わらせた程度では「成果」と言えないことぐらい分かっていた。オリジナリティは何一つないからだ。 だから、Tutorialを終わらせた時点で、次はオリジナルのアプリを作ることを目標にし、実際に作り始めた。Tutorialにはなかった要素として、HAML (簡易HTMLのようなもの。今はSLIM派) を勉強できたのは大きかった。目標としていたのは、高校生の頃に作ったホームページのリプレースだ。実際、結構それっぽく作ることはできたが…ロジックを書く楽しさが感じられず、手探りで地味な設定ファイルを書くことに飽きてしまい、先述の忙しい時期と重なったこともあって中途半端な成果で終わってしまった。 やはりロジックを書きたいし、RailsのまえにRubyの勉強をしっかりしたいとも思っていた。

気分を変えるために、登録しただけで放置していたCodeIQというサービスを使うことにした。早い話が競技プログラミングサイトである。先ほどあった「ロジックを書く楽しさ」が感じられそうであったし、Rubyの基礎も勉強できそうだった。なんか「あなたの回答を見た企業がスカウト!」とか書いてあったが、まあそこはあんまり気にしていなかった。 本格的に使い始めたのが2016年3月初旬で、勉強会の時間で1日で3問ほど進んだ。1日で「Ruby中級」まで行けたので「こりゃ楽しくていいわ」と思ったものだ。久々に頭の体操になり、ゲーム感覚で楽しめたのもよかった。CodeIQは今でもちょいちょい活動している。

で、週が開けて月曜日、CodeIQのスカウトメール欄が意外なことになっていた。「技術力がある方とお見受けしました」「ぜひ新しい環境で実力を発揮しませんか?」こう言われれば悪い気はしない。そのうち2通以上メッセージを送った転職エージェントと面談し、まずは書類選考に至ったというわけである。 数としてはよく覚えている。そのエージェントからは6社に履歴書と職務経歴書を送り、そのうち3社は書類選考通過、1社は追加でエントリーシートの提出を要望(後に対応できず辞退)、残り2社は不採用となった。それとは別にもう1社面接に至った。この時点で書類選考の通過率は4/7, 半分以上だ。まあ、それなりに「イケる」と思ったもんだ。

ここから、本格的に転職活動が始まることになる。このあと体験する苦労は、当時は想像もつかなかった。

転職を決意してから、面接まで

2015年の9月は長めのシルバーウィーク休暇が取れた。日々の喧騒を離れ、九州のリゾート地でのんびりしたあと、遠くに住む親戚とあいさつがてら数日過ごすという、今思い返しても理想的な休暇であった。しかし、そこはかとなく不安になる時間があったのも事実である。家族も恋人も友人もいない一人旅ということもあったんだろうが、少しでも休暇が終わったあとのことが頭をよぎると異様に不安になったものだ。遠く南の島の民宿のベッドに横たわり、深夜「このまま遊んでていいんだろうか」と感じてしまったこともあった。

社会人にとって休暇の過ごし方は永遠の課題である。当時俺は何をやっても日曜の夜には後悔が残る、典型的なサザエさんシンドロームに陥っていた。1日家にいれば無駄にした気になる。外で体を動かせば多少気分は晴れるが、出先でカップルでも見ようもんなら途端に1人で何やってんだと考えてしまう。家族と外出すると気が楽だが、いい歳して独り立ちできていない感がぬぐえない(いつまでも優しくしてくれる家族には感謝している。実際、家族との時間は今でも大事にしている)。これで恋人でも居たら違うんだろうなと考えたこともあるが、想像の域を出ないのでこれ以上はやめておく。とにかく、当時の俺は不満と不安に侵されていた。

「あんた、会社で働くのに向いてない!」と言い放たれたのはそんな折である。こいつらは結局ネズミ講の勧誘員だったのだが、この件で「あ、この会社で働く以外の道もあるんだ」と気付き、そのための行動を起こす踏ん切りがついた。まず行ったのは転職支援サービスへの登録と電話での面談である。そこで言われたことは金言として今でも見に留めている。

転職したいなら、勉強しろ。

(※実際はもっと丁寧な言葉でした)

そう、転職先で求められるスキルを身につけなければ話にならない。この点、入社させてからの将来性を重視する新卒採用とは大きな違いだと感じた。転職で求められるものは「具体的なスキル」だ。つまり、現状では転職したいなど話にならない。ここから数ヶ月を俺は転職準備期間と位置付けた。これをもって、俺の転職活動はスタートした。2015年10月のことである。

ここでDoorkeeperとConnpassを使って勉強会を探すことを勧められたので、さっそく使うことにした。時は10月も半分を過ぎた頃だったが、運良くiOS (Swift) とRuby on Railsをテーマとした勉強会をそれぞれ10月中に見つけることができ、さっそく参加した。改めて思ったのが、技術は触れてみないと分からないという単純な事実である。Swiftは言語仕様を読む限りなかなか快適な言語に思えたが、ことiOSアプリを作るとなると意外にObjective-Cっぽさがある。特に画面表示とプログラム処理を結びつける時の泥臭さは、もはやスマートフォンアプリ開発にいつまでもついてくる課題だろう。俺は見た目の美しさより論理的な美しさが好きなんで、iOSエンジニアへの道は早々に諦めた。

で、論理的な美しさって何よというと、まさしくRubyの設計思想がそれだった。何しろ書いていて快適である。最初は「いちいちendって書くのはPythonよりイケてないな」とか思ったが、PythonPythonでインデントをものすごく注意しなければならないという側面もある。インデントを推奨するが必須ではなく、かつ論理的な区切りをつけやすい「なんでもend」方式に慣れるのにそう時間はかからなかった。少なくとも、予約語に対してブロックの終わりがfiだったりesacだったりodだったりdoneだったりする言語より数倍マシだ。シェルスクリプト、お前だよお前。

勉強会自体も刺激的だった。やはり会社の外の人と会話するのはそれだけで刺激になる。それに自分の話も他の人にウケている様子であった。かくして俺は勉強会にすっかり夢中になり、特に2グループについては常連となった。今でもこの2グループ主催の勉強会にはよほどのことがない限り出席している。この時点では、勉強してスキルを身につけるというより、仕事の鬱憤を雑談で晴らすという目的の方が大きかったのかもしれない。いや、それでいい。消極的だった休日の過ごしかたに、一つの活路が見えた。

勉強会を楽しむ日々がしばらく続いたが、肝心のRubyの技術が身についているかというと、今思えばそうでもなかった気がする。なにしろオリジナルのアプリを結局リリースできていない。Ruby on Rails Tutorialはやりがいがあったが、終わってしまうと急に目標を見失った気がした。やはり俺は教科書の問題があってから行動する習慣から脱していないようだった。この点については今でも最大の課題である。

転機となったのは年が変わって2016年の2月である。先ほど述べた通りTutorialを一通り終わらせ、次何やるかと思い立ったのがCodeIQというサービスである。これは数学的な問題と入力例が提示され、問題に対して正解となるプログラムを投稿することでユーザーの技術力を評価する、広義で競技プログラミングサービスである。ある時の勉強会で3問ほど解いてみたところ、週明けに自分の回答に驚くほど反響があった。まあ、自動投稿的なものもそれなりの割合であったが、自分のプログラミングスキルに自信を持てる一員となったのは事実である。そのうちの1件と連絡を取り、あれよあれよと言う間に面談を経由して面接までこぎつけた。最初の面接は2016年の3月である。ここから本当の戦いが始まった。

サザエさんシンドロームは、いつの間にか消え去っていた。

Initial commit (1) このブログについて・転職を決心するまで

このブログは、大手SI企業入社3年目の若手社員が、Web系ベンチャー企業への転職を目指して四苦八苦する様を綴ったものである。筆者(@strviola)は情報活用に関しては平均以上であると自負しているが、情報発信にはとんと疎く普段はTwitterで愚痴を垂れ流すくらいしかしない。ブログなど高校生の頃に書いていた事があるくらいでほぼ10年のブランクがある。それでも久々にブログなどという時代遅れのメディアを始めたのは、以下の理由からである。

  • 自己反省。転職活動をする中でその時の活動を振り返り記録することで、次に似たようなことがあった時に対処しやすくする。
  • 孤独感。後日触れる予定だが、転職活動とはとにかく孤独な戦いである。LINEやTwitterで愚痴ってもあんまり共感してくれないので、違った経路を試してみる。
  • 文章を作る練習。面接であれ書類であれ、転職活動では文章を作る必要が大いにある。その場になって急に対応するより、事前に練習しておく。
  • コンテンツとしての期待。こうして自分が文章を記録することで、将来似たような立場になった人の役に立つんじゃないかなーと思った。
  • 量的な不安の無さ。転職先が決まるまで内容に事欠くことはないだろう。現にこの記事プラス4本の構想が頭にある。

さらに、今回自分にとって初めての試みとして、Twitterと密に連携したブログを作っていく。Twitterにもブログにもお互いの紹介を載せるし、ブログを更新した時はTwitterにもそう通知する。このブログを「Twitterの延長」として扱うことで、浮かび上がってくるものがあると期待する。

さて、転職を語る前に現職を語らねばなるまい。現職は大手SI企業の官公庁システムのプロジェクトにいるシステムエンジニアである。名前は伏せるが(一部バレているがこのブログでは伏せる)日本人なら知らぬ人はいないレベルの有名企業の名前を冠するグループ企業である。この点、初対面の人に自己紹介する時も通りがいい。この会社に入って良かったと思える瞬間の一つである。

前もって言っておくが、自分の会社は労働環境だけ見ればかなりホワイトな部類である。残業はそこそこあるが多い時で月50時間程度(若手は)、閑散期には10時間を切ることもある。休日出勤もあるにはあるが代休取得のルールが徹底されており、休暇は比較的取りやすい。何より、残業代も休日出勤手当も全額出る。しかも医療保険や住宅補助などの福利厚生もかなり手厚い。おまけに失業のリスクもかなり低い。これらは先輩たちの文字通り血の滲むような努力の上に成り立った環境である。もはや公務員みたいなものである。

自分としても、配属当初は結構楽しんで仕事していた。そもそも配属先がアプリ担当であり、あんまり好きではないJavaがメインではあったもののプログラムを仕事にできることに喜びを感じていた(下手すると全く門外漢の回路系や、全くクリエイティビティのないテスター部隊になっていた可能性もある)。開発案件がいくつもあり、コーディングする機会が割と多かった。おまけにRedmine, Jenkins, Mavenなど官公庁システムとしてはあまり例を見ないモダンなアプリも取り入れていたし、開発手法はスクラムをベースに独自のカスタマイズを加えたものだった。こうしてみるとシステムはレガシーでも進め方はなかなか先進的である。ついでに言うと、国家を支えるインフラエンジニアとしての自負も少なからずあった。この辺が文句言いつつ2年間続いた要因だろう。

が、これらは新人を引き止めるためのある種の方便だったのかもしれない。その後の面接でも実際に引用したが、俺は2年目のある日上司に言われた言葉を忘れない。

「ねこばば君には、今後(担当のシステム名)の運用保守をやってもらうから。開発はあんまりできなくなるねえ

この言葉だけがきっかけではないが、俺はこの会社で働く以上未来はないと確信した。何より、プログラマの地位が低い。ビジネスに最も直結するはずのプログラムを書く人が、使い捨てのハケンさんとして扱われている。それよりも「プログラマを束ねて価値ある製品にするマネジメントが重要だ」という思想が支配的である。プログラマとマネージャ、確かにどちらも重要な仕事であるし、優劣はつけられない。しかし、俺は今までプログラマとして教育を受けてきた。そこからマネージャになることを求められるということは、大学6年間で学んだことを捨てろという宣告にも等しい。確かに、マネージャの道に進んだらそれはそれである程度成功できるんだろうけどさ。それ以上に「プログラマでいる限りこの会社では偉くなれない」と悟ったショックが大きかった。

そんな折、当時親しかった人に上記の話を打ち明けたところ、「あんた、会社で働くのに向いてない!」と豪快に言われた。この言葉は少なからず自分を後押しする結果につながっただろう。この言葉を言った人は、その後色々あって今は最も嫌いな人物の一人まで成り下がったが、この一点についてだけは感謝している。つまり、この時に「なにも嫌いな仕事を我慢する必要はないんだ」とやっと気づけたのである。

かくして、転職を見据えた具体的な行動が始まった。2015年10月のことである。ここから社外の交流を広げ、さらに会社を離れるべきという確信を強めていくのだが、それは次の記事に譲りたい。